福沢諭吉の英語教育はどのようなものだったのでしょうか。


まず月末に点数を計算し、組の名札の順次を改めます。


成績のよいものは上級に進められます。


生徒は予習に必死とならざるをえません。


現今の教授法から見れば、これは点数主義として非難されるかもしれません。


しかし信賞必罰は部下を統率する原理です。


自分の勉強の努力が認められなかったら、どうして教師を敬服することができるでしょうか。


蘭学者は幕末の嬢夷思想の中で生命をかけてオランダ語を勉強しました。


蘭学者は、日本を神国と信するような頑固者ではありません。


中国を万物の模範と思っている中華思想の持主でもありません。


日本よりもすぐれた長所をもつ西洋を知っています。


日本を救うためには石川遼 英語のような勉強法によって西洋の学問を採り入れなければなりません。


採長補短なのです。

この間、札幌旅行だけのつもりで北海道に行ったのですが、十勝にも寄ってきました。


十勝はどこへ行っても、金色にかがやいている豊かな耕地ばかりではありません。


農業の可能な限界をはる協に越えた地帯で、痩せた地味や、冷酷な冷害におびやかされた生活もあるのです。


どこまでも続恥た落葉松の並木が終って、荒くごつごつした柏の疎林が現われてきます。


「すすきの野を出でて解の林に入り、解林を出でてまた薄の野に入る」(『断橋』)


・・・といった、背のままの十勝の姿の残っているのは、この酷薄の山麓地帯です。


この辺では十勝名産の豆類はもう危険です。


ビートをつくり、ジャガイモをつくって牛を飼うよりありません。


まずしいサイロをもつ生活がポツリポツリと、柏林の間に点在しています。


日高連峰が大好きで、木炭を焼いたり牛を飼ったりして十勝原野に入った山岳画家の坂本直行は、冷害になると日高山脈の見える十勝原野を描いては、札幌で展覧会をやっていました。


しかし、あととりがうんと言わないので、とうとう原野から町に戻って来たそうです。


彼のいたのは、誰の悪戯か「愛の国から幸福へ」なぞと変な切符ブームを起した、幸福駅よりずっと先の柏林のかげでした。


幸福という駅も福井県から移住した人々が、何とか幸せをつかみたいとつけた地名だったのです。

未来のニューサウスウェールズ首相のヘンリー・パークスとその妻クラリンダは、この時代に「移民奨励金」を受けました。


ウォーリックシャーで生まれ、バーミンガムという、政治的急進主義の気風が強い風土の中で育ったパークスは、不景気風の吹く1830年代に、象牙職人などでは食べていけないことを痛感しました。


彼は故郷を去ってロンドンに向かいますが、相変わらず周囲の状況は厳しかったのです。


パークスは、1838年12月6日、姉の許に次の様な手紙をしたためました。


ロンドンにやって来たものの、あらゆる面で僕のとんだ見込み違いに終わった様です。


でも、今更愚痴を言っても仕方がないので、その話をするのはやめておきます。


もしロンドンでうまくいかなければ、もっと遠い所に行くことになるかもしれないと、それとなく姉さんに打ち明けていたのを覚えておいでですか。


僕は、このすばらしい見知らぬ都会にやって来て、見るもの聞くものすべてが新鮮で驚きの連続でしたので、この広い都会の中に僕の居場所などありはしないということに気づくまで、ほとんどそんな考えは忘れかけていました。


しかし今、僕は再び移住ということを真剣に検討しています」。


この時期オーストラリアに移住して来た人々は、生まれの卑しい人々でした。


中には、本国では仕事が見つからないという理由のみで、移住を決意した人もあったのでしょう。


渡航に要する経済的負担を少しでも和らげようという、篤志家の経済的援助を受けていた人もいました。


すべての関係者にとって、移民は最良の解決策に思えました。


ある国会議員は、1843年に下院に対して次の様に意見を述べました。


「ある村で、結婚したばかりの若い織工と農場労働者とが、共に失業状態にあるとしよう。


2人は授産所に収容されているため、その鋤も機も、ただ遊休状態にある。


この2人の93とその家族を養うために、住民は年に、おそらく40ポンドの税金を負担せねばならない。


そこで、農場労働者とその家族を、オーストラリア、あるいはカナダへ移住させると、住民は2世帯の貧困家庭のうち、1世帯分の租税負担を免れることになる。


これは、年20ポンドの金の節約につながる」。


この様な提言がなされたにもかかわらず、移住は、貧窮者の運命というより、限りある可能性から抜け出すためのかけであると受けとられていた様です。


しかし、こうした貧しい移民の数が増加していくと、逆に植民地の側からは、英国の貧民を押しつけられているという不満の声がわきおこる様になりました。


アイルランド移民に着目したある解説者は、より的確な意見を述べています。


「怠け者、身もちの悪い者、反政府分子のみが、祖国を離れる様に仕向けられているなら、願ってもないことである。


しかし、すべての移民船がまじめで、節度もあり、勤勉な英国人を運び去っているのは周知の事実である」。


1830年代後半までには、植民地政府もまた、移民の援助を目的とする総合的な計画を発足させました。


1836年、ニューサウスウェールズ政府は、土地からの収入の全額を移民援助のために寄贈。


政府が直接雇用することのできない移民に対しては、助成金制度によってその埋め合わせがなされたのです。


夫婦、独身女性(身元引受人が夫婦の場合)、独身の機械工、農場労働者を呼び寄せた入植者に対しては、補助金が支給されました。


また、若い夫婦がやって来て植民地に定住すれば、子孫を増やしてくれるだろうという期待が持たれました。


事実、移民として海を渡った人々は、たくさんの子供たちを連れていました。


これらの計画の下で、オーストラリア移民の質は、次第に変貌を遂げていきました。


1820年代にやって来た「上流階級の投資家」とは対照的に、1830年代後半、また1840年代前半にやって来た移民のほとんどは、労働者階級の出でした。


英国内の経済状態と、社会的困窮のため、より一層この傾向に拍車がかけられました。


この時期イングランドでは失業率が高くなり、1839年、1842年、1848年といった不景気の年には、とりわけ失業率が高まりました。エグゼクティブトレードによると、アイルランドでは人口の増加により、小作農は生活を圧迫されるばかりの有様でした。

スコットランドハイランド地方では、牧羊業を営もうとする地主のために、小作人をコ掃」する計画が続けられました。


そのため、弱小なスコットランド小作人は、アイルランドの小作人と同様の打撃を受けたのです。


植民地の状態を、移民の期待に応えうるものにするという問題は、永遠の課題として残ることとなりました。


女性移民には道徳的な面で問題があるとする非難は、ほとんどが根も葉もない中傷でした。


移民計画の援助の下でオーストラリアに渡った女性を研究している近代のある歴史家は、植民地に家政婦を送り、多くの女性に、英国では望むことができなかった雇用の機会を与えたことは、一応評価に値すべきことであると言っています。


ローマカトリック教徒の篤志家、カロライン・チショム夫人は、苦境にあえいでいた独身の女性移民に救いの手を差しのべました。


夫人は、やって来たばかりの女性達に適当な働き口を見つけようと努めました。


しかし、夫人最大の目的は、彼女らを結婚させることにあったのです。


家族ができれば、オーストラリア社会の道徳は必ず向上するであろうと夫人は考えたのです。


そして、チショム夫人は「家族移民ローン協会」の設立を働きかけました。


最も望ましい移民の形態は、家族単位の移民であるとの主義に基き、植民地社会は一家挙げてオーストラリアに移住する家族に、ローンを提供しました。


協会の第1号移民船は、おもに「家具職人、富裕な小売商、庭師、くつ屋、執事、婦人帽子屋、仕立屋、そしてお針子」をのせ、1850年代初頭に、オーストラリアへ到着しました。


そのほとんどは、フロックコートに身を包み、シルクハットをかぶり、非常に立派な身なりをしていたそうです。


1860年代に入り、解散の時期を迎えるまでに、協会は少なくとも5、000人の移民に対する援助を行ないました。


模倣を許さない長老派教会牧師のJ・D・ラングは、彼自身移住してからまだ日が浅かったにも関わらず、後に移民女性は「植民地全体」に影響を与え、特にシドニーの町は売春の巣窟と化していると断言しました。


タスマニアのアーサー総督は、様々な社会階級の女性達をこちゃまぜにして船にのせるという輸送方法に対して、非常に批判的でした。


総督は女囚一般よりはるかに劣る女性が、上品な女性をも悪の道に誘い込むと信じていました。


ところが、ニューサウスウェールズのリチャード・バーク総督は、植民地省に対して全く異なる問題提起をしています。


「イングランドでは、植民地がどんな人材を必要としているのか正しく理解されていないため、移民、入植者双方が失望の色を濃くしていると考えられる。


婦人の家庭教師を求めている家庭など、ほんの一部に限られている為、やがては供給過剰な状態となるであろう。


子供の世話をすることも教育の一部であると、柔軟に考えることのできる女性は、仕事にありつくことができるであろう。


婦人帽子屋、仕立屋が移民の候補に上がる機会があまりに多いため、すでに定員をオーバーしてしまっている。


かといって、激しい労働にはとても耐えられないため、彼女らが仕事を見つけるのは非常に困難である。


植民地が1番必要としているのは、乳牛管理に関する知識が豊富で、細々とした仕事をこなす才覚があり、なおかつ進んで奥地に赴いてくれる女性である。


この様な女性には、就職の機会が山とある」。


移住を奨励し、援助を図る為、植民地省の支援の下に「土地と移民に関する委員会」が結成されました。


この委員会の設立は、ブリテン諸島からオーストラリアに向けての移民を増進させる上で、重要な意味を持っていました。


これと反対に、人数的には勝っていたものの、しっかりとした計画に基いていなかった、大西洋を越えての移民は、委員の裁量に委ねられていました。


統制と管理が行き届いた結果、1860年代末までには、長い航海による死亡率も5%から0・5%へと減少したのです。


1869年までに、委員会は延べ1088隻の船を動員し、5、000、000ポンドの費用をかけて339、000人の英国移民をオーストラリアへと送り出しました。


この計画に必要な財源のほとんどは、オーストラリアの土地を売却した資金の中から捻出されました。


植民地オーストラリアは、当時2つのものを必要としていました。


1つは労働者、特に技術を持った労働者で、他の1つは独身の女性でした。


技術を持った労働者集めには、多少の障害も伴いましたが、独身女性を集めるのに、さして苦労は要しなかったようです。


1832年から1836年にかけて、3、000人の女性がオーストラリアへ移住するための補助を受けました。


計画の推進は、英国植民地省の手によって計られましたが、移民の選定は、慈善組織及び、「ロンドン移民委員会」の名称で知られる団体の裁量に委ねていました。


オーストラリアに向かった女性の大半は、労働者階級出身の女性でしたが、中には中流階級の令嬢も含まれていました。


にもかかわらず、入植者達はやって来たばかりの移民女性の質の悪さに不満を抱いたそうです。


地球の反対側へ向けての船旅には必要がかさむという問題点は、政府から補助金が支給される様になったことで、ある程度の解決を見ました。


政策変化の原動力となったのは、植民地オーストラリアの重要度が増したという理由ではなく、英国の統治者が抱く不安感が増大したという理由によるものです。


1815年以降、経済が大きな変わり目を迎え、入手可能な資源では、とても人口の増加をまかないきれないと考えられる様になりました。


支配者層と敵対関係にあった労働者階級に属す多くの人々が、財産の安全性を脅かしていたのです。


貧民法を制定したことで、社会の底辺にいる人々を救済するのに必要な経費がかさみ、これが統治者の悩みの種となりました。


1820年代、政府はカナダへの移住、植民計画に対する援助を行いましたが、その裏側では「貧窮者を国外に出そう」という思惑が働いていました。


1832年、オーストラリアに向けて同様の計画が進められたのです。


19世紀は、非常に多くの人々がヨーロッパを離れた時代でした。


故国を後にして他の場所に住んだヨーロッパ人の中でも、英国人は一際目立つ存在でした。


1900年までには、英語圏で生活をする人々の3分の2までがヨーロッパを離れた場所で暮らす様になっていました。


これら移民団の大半は西をめざし、アメリカへと向かいました。


1815年から1912年にかけて、21500000人にのぼる人々がブリテン諸島から移住して行きましたが、その半数はアメリカに渡っています。


これと比較して、オーストラリアへの移住はごく少数で、関心を寄せられた反面、全く関心を払わぬ人もいて、オーストラリアに対する評価は両極端に分かれました。


1815年から1840年に至る期聞に、1000000人の移民がブリテン諸島を後にしました。


その多くは大西洋を渡り、アメリカへ、また英国領カナダへと、新天地を求めたのです。


大西洋を横断しての道のりは、なかなか厳しいものでしたが、地球の反対側を目ざす、長く険しい旅と比べれば、相対的に安上がりでした。


オーストラリアまで行く為には、最低でも40ポンド(約19200円)の船賃を必要としたのですが、アメリカ及びカナダまでの船賃は、5ポンド(約2400円)でした。


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